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2024/03/28 19:15 |
秋は深まり想うこと 見つめてみるは その掌(てのひら)


※本日、日記が三つ更新されております。
『霜月・司会の記録①・②』も、合わせてお読みください



司会を終えて、感想など。


この仕事が舞い込んできたのは偶然であるが、
『地域密着型』をテーマにした、この学園祭は、
『お年寄りから子供まで、みんながそれぞれ楽しめる公演』という、
一座が目指すスタイルに、かなり通じるものがあった。

そのため、私も随分とやりやすかったのは確かである。自然とテンションが上がっていった。


今回、普段の小劇場での公演では中々出会う事は出来ない方々(年齢層もだが、ほとんどが芝居関係者ではない)に、【小櫃川桃郎太一座】の存在を知ってもらえたのは、大きな収穫であった。


もちろん、それはすぐに集客に繋がるわけではない。
しかし少なくとも、確実に演劇の『外』に向けた発信である。

たとえ一座の集客に繋がらなくても構わないのだ。

ひょっとしたら、今回のつかの間の出会いが『お芝居』を知るキッカケになってくれるかも知れない。
たとえ何十年か後にでも、何かしら、その人に影響を与えるかも知れない。


”身近な所から”

それが大事なのではないかと思っている。



ちょうど昨年も、11月に外部出演が多くあった。
(※過去記事『霜月・歌とお芝居①~③参照』。
http://ob2.blog.shinobi.jp/Entry/58/)


我が一座は、劇場での公演もしつつ、こういった外部への働きかけを、
もっともっとしていかなくてはならないのだろうな。
お年寄りや子供たちにも、一緒に観てほしいもの。


一座のスタイルは、あらゆる方向から見て、大変微妙な位置にある。
小劇場演劇
大衆演劇
歌謡ショー
時代劇・・・など、どれかと言えばどれでもなく、特化したジャンルは特に無い。

ハッキリ言えば中途半端である。


だが、それは、あるジャンルとの『中継ぎ』が出来るという事にはならないだろうか。



間口は広く、とても広く。
敷居を低く、ひたすら低く。


だが、決してチープにはしない。


『入り口』として、でんっと構える、誰でも入れる芝居小屋。

どこにだって飛んでいくよ。



理想は、そういうこと。





                       小櫃川 桃郎太(おびつがわ ももろうた)

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2008/11/06 21:04 | Comments(2) | TrackBack() | 想うこと
それはじんわりと そしてひたすらに暖かく。


反省点はたくさん残ったけど

迷惑をたくさんかけたけど



自分はそうしたいから

どうしてもやりたいからやった


だから それでよかったのだと思う



だからこそ

今 こんな笑顔ができるのだと思う



関わってくれた人達や

観てくれた人達は

どうだったろう




笑顔になってもらえたなら

穏やかな顔になってもらえたなら



そうならいいな と




そんな事を考える






小櫃川 桃郎太(おびつがわ ももろうた)




2008/10/06 06:22 | Comments(0) | TrackBack() | 想うこと
8月6日 そして9日 あの鐘を鳴らすのはあなた




北京で、高らかに世界の祭典が行われる中、

長崎で静かに鐘が鳴る。




様々な想いを胸に、
ひとりひとりが目を閉じる。


熱い日差しの中に響き渡る、
鐘の音とセミの声。



その沈黙の中に、我々は、ことばにならないものたちをみる。


黙祷をする人々の、ぎゅっと引き絞った口元に。

あるいは、眉間に刻まれた、しわに。

あるいは、静かに閉じた瞼に。







静寂は、より多くを語る。







小学生の頃。
8月9日。
夏休みなので、家でテレビを見ていたのだが、
11時になると、そばに居た父が、ふいにチャンネルを変えた。
NHKだった。
長崎の映像が流れる中、父が
「黙祷をしなさい。」
と、静かに言ったのを覚えている。

父は、育ちは福岡だが、出身は長崎である。

自分は、きょとんとしながらも、何も言わずに黙祷をした。


その時は、まだよく理由も分かっていなかったが、
父の言葉が静かだったからこそ、なにかが伝わったのだと思う。
父にとって、大切な事なのだと、こどもながらに感じたのだろう。



沈黙するという事は、
自分をどこかにつなげて、
何かを聴こうとすることだ。


黙祷という行為は、決して教育用語的に扱われるべき行為ではない。
ひとりひとりが、その沈黙に何かを想い、祈り、捧げ、受け取る儀式だ。


それは、きっと必要な時間だ。




だから、今年も黙祷をする。


何も言わず、


カタチにならない想いを込めて。






あるいは、自分の声を聴くために。






                        小櫃川 桃郎太(おびつがわ ももろうた)


2008/08/09 23:39 | Comments(1) | TrackBack() | 想うこと
雷鳴と雨音と


各地で、雷や大雨が続いていますね。


私は、今、自宅でこの文章を書いています。


こちらでは、雨は小降りで、少し遠くに雷の音が響いています。



以前にも少し書きましたが、雨や雷が案外と好きなのです。

雷が鳴るとテンションが上がる、という方もいますが、
私の場合、妙に気持ちが落ち着きます。


なんというか、
雷や雨の音の振動が、
自分の中の≪うねり≫を
いろいろと相殺して、中和してくれているような。

代わりに叫んでくれているような、
そんな感じ・・・でしょうかねえ?




いや、違うな。

むしろ同調しているんだな。




なんかですね、時々、無性に、

泣き叫びたいような

吼えたいような

怒りよりは哀しみに近い

そんなどうしようもない感情が、
あたしの中で、ぐるぐるする事がございましてね。


そういう時って、

美味しいものを食べようが

お酒を飲もうが

ぐっすり寝ようが

音楽聴こうが

あまり効果はないのですよ。




叫びだしそうな

吼えだしそうな

イライラや鬱とは、おそらく違う

やはり、怒りよりは哀しみに近い

そんな状態の日が、ときどきあるのです。





こういう状態の時って、
案外、脚本のアイデアが浮かんだりする。
今回はどうかな。



ああ、雨が強くなってきた。

ばらばらばらばらばらばらばらばらばらばら

ごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろ



こういう日は、ときどきある。
決して、悪い状態では無いのだけどね。




それが今日、8月5日に起こったというのは、何か関係があるのか、
それは本人にも、解らないのです。




                         小櫃川 桃郎太(おびつがわ ももろうた)

2008/08/05 18:11 | Comments(2) | TrackBack() | 想うこと
この世を構成している錯覚と写し絵
 
 
 
 
 
私は昔から、時々ですが、

「自分の生きているこの世界が実は夢で、今まで生きてきた時間は全て幻なんじゃないか」

という感覚に陥り、難儀する事があります。
 
 
この感覚は、今でも時々襲ってきます。

 
これといって原因があるわけではないのですが、
ただなんとなく
 
「今、自分が見ているこの世界って、本当に現実なのか?」
 
と、ぽつんと考えてしまうのです。
 

 
その瞬間、周囲の景色は突如色を変え、
辺りの音は遠くなり、
足元はひどく不安定になり、漠然とした恐ろしさと不安に襲われ、

 
そして、ひどく悲しくなります。

 
 
あたり一面まっしろな空間にぽつんとひとりで佇み、
その【自分】すら、音もなく削れていくような、
そんな、遠い記憶のような実感覚。
 
 
 
しかし、とりあえず元の世界(?)には戻ってきますし、
戻って来た時に泣き出したりするわけではありません。
 
ただ、悲しいな、と想いながらも、
 
「そんな事、誰にも解らないし、証明する方法も無いよな」
 
と考え
 
「まあ、仕方ないんだろうなあ・・・」
 
と、諦めにも似た感覚で目の前の景色を眺めるのです。
 
 
私には常に、どこかこの感覚が付きまとっているように思います。
最初から世界をあきらめているというか、達観しているというか。
考えるのが面倒くさいというか。
 
 
 
 
でも、なんだか、それを認めたくない自分もいるのですね。
だって、なんだか悔しいじゃないですか。
 
 
さっきの感覚が強く襲って来た時、私はその場で走ります。ダーっと。
 
なんか悔しいので。
 
悲しいけど、仕方ないけど、
 
嫌なので。
 
 
 
 
 
右目と左目は違った映像を視ている
という学術的証明まである以上、
我々は常に錯覚の中を生きているという事になります。
我々は、(少なくとも視覚では)世界を正確に認識できないのです。
 
この世界そのものがすでに騙し絵のようなもので、
『中』に居る者たちだけが、それを知らない。
 
  
ならば、このあらゆる感情や想いも錯覚なのか。
悲しみも喜びも憎しみも何もかも錯覚で、この世は夢うつつなのか。
 
そもそも自分の認識している世界が
他人にも同じように認識されているのかなんて、
誰にも証明できません。
 
 
 
 
      で        す         が     。

           
                 し        か        し     。
 
 
そんなゴチャゴチャした考えが、どーでもよくなるくらいの
鮮やかな瞬間があることも、また事実です。
 
たとえ、それさえも錯覚かもしれなくても、
あたしゃ、その瞬間を信じる事ができます。
 
 
『それ』を疑いもしないで、黙々と生きるのもキライですが、
悲観して嘆くだけなのも嫌いです。

 
 
 
時々は目をつぶって外で寝転がってみるとよろしい

風の音と肌に触れる空気に身を任せてみるとよろしい
 
 
謳(うた)ってみるとよろしい

あくびをするとよろしい

影踏みをするとよろしい
 

 
落ちてくる木の葉をながめるとよろしい

美味しいコーヒーを淹れるとよろしい

手のひらで頬に触れるとよろしい
 




 
 
 







 
「肝心なことは、目にはみえないものなんだ」

星の王子さまはそう言いました。
 
 
 
さもありなん。 
 
 
 
 
             小櫃川 桃郎太(おびつがわ ももろうた)
 
 
 

2008/03/07 21:07 | Comments(4) | TrackBack() | 想うこと

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