北京で、高らかに世界の祭典が行われる中、
長崎で静かに鐘が鳴る。
様々な想いを胸に、
ひとりひとりが目を閉じる。
熱い日差しの中に響き渡る、
鐘の音とセミの声。
その沈黙の中に、我々は、ことばにならないものたちをみる。
黙祷をする人々の、ぎゅっと引き絞った口元に。
あるいは、眉間に刻まれた、しわに。
あるいは、静かに閉じた瞼に。
静寂は、より多くを語る。
小学生の頃。
8月9日。
夏休みなので、家でテレビを見ていたのだが、
11時になると、そばに居た父が、ふいにチャンネルを変えた。
NHKだった。
長崎の映像が流れる中、父が
「黙祷をしなさい。」
と、静かに言ったのを覚えている。
父は、育ちは福岡だが、出身は長崎である。
自分は、きょとんとしながらも、何も言わずに黙祷をした。
その時は、まだよく理由も分かっていなかったが、
父の言葉が静かだったからこそ、なにかが伝わったのだと思う。
父にとって、大切な事なのだと、こどもながらに感じたのだろう。
沈黙するという事は、
自分をどこかにつなげて、
何かを聴こうとすることだ。
黙祷という行為は、決して教育用語的に扱われるべき行為ではない。
ひとりひとりが、その沈黙に何かを想い、祈り、捧げ、受け取る儀式だ。
それは、きっと必要な時間だ。
だから、今年も黙祷をする。
何も言わず、
カタチにならない想いを込めて。
あるいは、自分の声を聴くために。
小櫃川 桃郎太(おびつがわ ももろうた)
瞬間的に亡くなった人の数は、
6日が約9万人、9日が約7万人。
3月10日は11万人。
ま、比べるものでもありませんが。